●今までに日本画と自分の作品との関係性について意識したことがありますか?
1.はい
1に該当した方。具体的にどのように意識しましたか?あるいはしていますか?
私が日本画に出会ったのは高校の美術科の選択科目です。絵のイメージはありませんでしたが、面白そうな素材と日本という言葉の響きに興味を覚えました。しかし「日本画って本当は何だろう?」という素朴な疑問が生じ、もう少し掘り下げてみようと大学では東洋古典絵画の模写に四年間励みました。作品はあらゆるものの影響下にあると思いますが、東洋古典絵画の模写を通して得た経験には学ぶ事が多かったです。
●自分の作品はしいていうなら何と呼ばれるのが望ましいですか?
あるいはどの様な位置付けで見られる事が望ましいですか?
只々作品なのだと思います。外部からの呼称に対してはあまり意に介しません。自分の制作は日本美術から着想を得ているし、意識もしている。画材や技法の点からも日本画にルーツがありますが、だから日本画であると言えるのかは疑問である。ボーダーレス化する意識の中では作品そのものを言葉で明確に括る事の難しさを感じるし、日本画は絵画と言語の表現がどちらも変容し、その捉え方は多様でありながら、ある社会的イメージを持っている。しかしそれは国際的な視点においてまず機能しない。接点がある以上、その本質的な意味や価値を見直し再構成する事は私にとっては意義がある事だと思う。
●現在の様な作風に変化したのはいつ、どの様な事がきっかけですか?
思い当たる事があればお答え願います。
前述のように私は高校時代に日本画に出会い、大学では模写に打ち込んでいました。
そうはいっても日本画にしか興味が無かった訳ではないので、古画も現代美術も同様に比較したりしながら表現について模索してきました。個や時代を超えたところに興味があり魅かれるものがありました。そしてそれらは以下のような現在の作品制作の柱となっています。

・東洋造形思想を柱に様々な造形感覚を融合させる事
・ 「すべてのものはうつろいゆくが、同時に繋がっている」という考え方
・ 日本の伝統文化を今に生きる視点で捉え直し、様々な歴史文化との繋がりを見出す事
造形面においては模写で学んだ東洋造形思想が柱になっていますが、現代に生きるうえで様々な造形感覚が混入されてきます。精神面においては「すべてのものはうつろいゆくが、同時に繋がっている」という考え方が重要になっていますが、これは東洋的宇宙観に通じるものでもあります。私は日本の伝統的な絵画(月次絵や四季花)も描きますが、それは日本文化や精神への共感や憧憬の表意です。模写もそうしたもののひとつであると考えています。
●膠を使う方。濃度は何%ですか?あるいは水に対して何膠をどのくらいいれますか? 又、ドーサの濃度はどのくらいですか?
膠は絵具や装禎形態等の違いを少し意識して使いますが、基本的には11%濃度でつくり、溶くときに水で%を調整して使っています。ドーサは雲肌紙等の厚手の紙を使わないので膠1%に明礬は目分量で通常より少なめに入れたりします。現代に普及している膠の性質や使い方は昔とは違うので用途における課題を感じます。
●日本画の画材に対する自分なりのこだわりなどはありますか?
模写を通して得た思想や技術は既に私の一部であるし、私のひとつの出発点でもある。
日本画材料には様々な魅力を感じているが岩絵具に関して言えば天然岩絵具で十分なので新岩絵具は使わない。基本的には納得すれば、用途に応じてあらゆるものを使う姿勢です。
●あなたにとって日本画とは何ですか?
東洋古典絵画には深い敬意を表しますし、日本文化の感性には個人的に共感する所が多い。
私にとってのかつての日本画を要約すれば以下の様になる。

・東洋哲学および造形思想(宇宙観、死生観 線、かたちに内包される美の思想)
・装禎美(軸装、屏風、巻子など)
・空間演出の文化(生活空間、場 機能性、行為)
*装禎美と空間演出の文化は相関性を持っている。
・ 画材(物質の特性、風合いを活かした絵具、線をかく為の様々な筆など)
上記のものに個人的な美意識、思想、時代、環境などが混成されつくり出された絵画

現代日本画は新岩絵具が主流で数ある日本画の伝統画材を活かしたものは少なく、東洋造形思想の基盤もどこかに追いやられている。そのため生活空間を離れ、装禎形式も変わってしまった。会場芸術、画廊展示、パネル張り額装が主流であり、すべてを一括りにして現代日本画を語れないが私にとってのかつての日本画と現代日本画の趣向は少し違っている。しかしその事はやみくもに中傷するものでもない。近代以前にはなかった表現や画材も次々と生まれ、逆にこの五十年から百年は日本画史上最も積極的に進化と深化を目指した時代でもある。ただそうした中で淘汰されてゆくものの存在を見過ごしてはならない。
日本画は今、自ら生み出した様々な不透明な枠組みにより何か狭いところに行き詰っているようにも迷走しているようにもそれすらしていないようにもみえる。自分の存在が日本の歴史・風土・社会等のうえに在るように、私の作品も日本画・日本美術等のうえに在ることは自明のことである。自分が自分であることに無自覚でいられないように、日本や日本画に対して無自覚であることは出来ない。どちらもまだまだ未知のフィールドである。
日本の歴史も文化も私にはまだまだ深い。



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