はじめに、書いた中で矛盾やこれは違うんじゃないかと言う処があるかもしれませんが、御了承下さい
●今までに日本画と自分の作品との関係性について意識したことがありますか?
2.いいえ
●2に該当した方。意識した事がないのは何故だと思われますか?
日本画を意識すれば描けるものでもないし、今は意識しません。
●自分の作品はしいていうなら何と呼ばれるのが望ましいですか?
あるいはどの様な位置付けで見られる事が望ましいですか?
呼ばれ方「日本画」
様々な画材、表現、国籍だろうとその作者が日本画だと言えば「日本画」で良いと思います、たとえそれがインスタレーションでも写真でもです。人が認めようが認めまいがです。
日本画と呼ばれたくないのなら、呼ばれたくないと意識表示するだけだと思います。
もし「私の絵は日本画じゃない」という作者に、「どうしても日本画の部門に出してくれ」、と言う時があれば、日本画で出したくないなら出さなければいいと思います。
言い方呼ばれ方は本人次第でたとえば 日本人が何処から見ても院展風の絵でも本人がアメコミだと言えばアメコミだし。イタリア人がビデオでスパゲティを撮して、本人が「日本画だ」と言えば日本画だと私は認めます。基本的に私は全肯定です。

位置づけ
様々な位置があり一概には言えません、今は公募展やコンクールでよく見る(展覧会に入選するため作風を合わす)絵には、したくないです
●現在の様な作風に変化したのはいつ、どの様な事がきっかけですか?
思い当たる事があればお答え願います。
今、基底材に石朔を使っています、このやりかた(技法?)はテンペラ技法からヒントをえました。石朔を使おうと思ったのは、和紙や麻紙では自分のしたい表現が出来なかったからです。
具体的に出来ない事とは紙では大量の水にフヤケ対応できずドーサが抜けてしまったり、画面に彫刻刀やヤスリなどで「削る」「傷をつける」がある程度で制限されます、その点石朔では「削る」「傷をつける」「洗う」「焼く」「貼る」「形」などの表現が制限ません。
平面や画面という表現方法からも自由と言っても良いと思います。
しかし50年100年後基底材の石朔はどうなるかわかりません。私は出来るなら絵が、剥落しひび割れ朽ちる自分の絵を見たいと思います。
朽ちるという事は刻々と流れる時間を取り込む自然な事で、いけない事とは思いません。
逆に残す事を意識し制作にあたれば、自ずと制約を受けるのではと思います。したいことが出来ないのはつらいと感じます。
●膠を使う方。濃度は何%ですか?あるいは水に対して何膠をどのくらいいれますか? 又、ドーサの濃度はどのくらいですか?
三千本膠12g、水65cc
使い方はそのままの時もありますし、薄めて使うときもあります。
ドーサに使う明礬はいれません。
12gに1000cc
●日本画の画材に対する自分なりのこだわりなどはありますか?
ナシ
●あなたにとって日本画とは何ですか?
将来生活するための糧




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