●今までに日本画と自分の作品との関係性について意識したことがありますか?
1.はい
●1に該当した方。具体的にどのように意識しましたか?あるいはしていますか?
ひょんなことから『日本画専攻』に在籍して6年もの教育を受けた私にとって『日本画』とは関係性の中で語れるものではなく、大前提というべきものだった。 そんな中で『日本画』とは画材であり、表現されるモチーフの問題であり、その精神性であると理解した私は、自身のモチーフ、画材に対して鋭敏になれたと思う。

今、この現代において『日本画』を成り立たすためには、『日本画』を描こうという熱い思い、誠実さのみが必要条件だと思われる。

私の最近の実感から言うと、現在の日本を表す、ホンモノの『日本画』を描きたいという思いと、純粋な絵画であり、広く言われる現代美術の地平で評価されたいという思いの上で揺れ動いている。 『日本画』の枠の中にいる人からは批判され、枠外にいる人からは「『日本画』なのにすごいね〜」なんていう言葉で片付けられ、無視され…

自身の作品を『日本画』との関係で意識することもあるし、そうでない時もある。『日本画』そのものだ!と感じることもある。人は揺れ動く。

自身の必然性の上で生まれてくるモノがどう呼ばれようが制作者にとっては本質的には関係ない。生まれ落ちたモノをどう位置付けるかという議論において『日本画』は立ち上がってくるし、とてもチャレンジングなジャンルだと認識している。
●自分の作品はしいていうなら何と呼ばれるのが望ましいですか?
あるいはどの様な位置付けで見られる事が望ましいですか?
意外に考えたことのない問いに驚いた。
自分の作品に対して『モノ』という言葉をよく使う。.
もし自分の作品に『日本画』という言葉が当てはまるとしたら、そこに普遍的な『日本画』固有の精神性はないと考える。
奈良で生まれ、奈良で育ち、奈良で制作している私の本当の深い真実が共通の普遍性に突き抜ければいい。万人に理解されるとは思っていない。同世代にはとても期待している。

『日本画』を描きたいというが、もしこの言葉がもうすでに手垢にまみれているならば、新しい言葉を見つけなくてはいけない。そうだ!と有無を言わさぬ言葉。その言葉に私の絵は引っ張られていくかもしれない。
最近よく使われる『平面』と呼ばれるほど、単純で無自覚なものを描いているつもりはない。

究極的に言うと、私が丹精込めてつくった『モノ』が結果的に『日本画』であり『現代美術』にカテゴライズされる。そしてそこに肯定であれ、否定であれ対話が生まれる。
●現在の様な作風に変化したのはいつ、どの様な事がきっかけですか?
思い当たる事があればお答え願います。
作風が固定されることは苦しいというか、面白くなくなる。
つくることは自身の存在意義を確かめる真剣勝負であり、そこには何のルールもない。

しいて言うなら表現が平面的な時と、立体的な時がある。
平面というイリュージョンの中に思いを込めることは、夢の魔法のようなことだが、時々絵の具の、支持体の物質性に目が覚めることがあり、そんな時はどの色をのせることもできなくなる。すべてが人間の欺瞞に思えて、色をのせ形作るという暴力性に自分のことがほんとうに嫌になる。

そんな時は『モノ』にすべてをゆだねて、まるで子供の遊びのように『モノ』をつくる。それは立体的な表現として立ち上がってくるのだが、『モノ』を切り刻む暴力性にまた自己嫌悪.. そのくり返し。

結局どうしても生き続けてしまう自分という存在のありかを探し続けているのかもしれない。
●膠を使う方。濃度は何%ですか?あるいは水に対して何膠をどのくらいいれますか? 又、ドーサの濃度はどのくらいですか?
芸大で6年『日本画』を勉強したのだから、最低限のことは習ったはず。ただ日本画の画材の扱い方は素材が原始的なだけあって様々な個性があると思う。
濃度も失敗したり、味で確かめたりと体で習得した気がする。

具体的には水に兎膠をニュアンスで入れてつかっています。
和紙に染み入る染料、顔料の姿が美しく感じる最近はドーサは使用していません。
●日本画の画材に対する自分なりのこだわりなどはありますか?
ないです。
●あなたにとって日本画とは何ですか?
私にとっての『日本画』とは?

明治期に『西洋画』を意識し、フェノロサや岡倉天心らを中心に、それまでの狩野派、土佐派といった伝統流派を一つに統合して創出された『日本画』ではない。

『花鳥風月』『シルクロード』といったいわゆる日本のルーツ、精神性を備えた近代絵画としての『日本画』ではない。

主に岩絵具を膠という伝統的な画材を使用する『日本画』ではない。

私にとっての『日本画』とは?

西洋文化の流入を受け、どうしようもなくねじれてしまった『日本』に生まれついた私が、もしねじれなく、皮肉なく、冷めた目線もなく描くことができたなら・・・ その時に立ち上がるであろうものが私にとっての『日本画』なんだろうか。

教師という仕事につき、子供たちと日々接する
教師という仕事につき、社会という幻想と対峙する
教師という仕事につき、人生を歩んでいく

ほんとうに生きにくい、愛のない、閉塞感だらけの『日本』
彼らに、私たちに真の意味での『希望』はあるのか?

競争、進歩、グローバル経済
私にまるで必要ないことばかりだが、全否定できぬ程この『日本』に深く食い込んだ。

もしも明治期に西洋文化の流入を受けず、『日本画』が創出されていなければ、
私は今どんな世界に生き、なにが見えどんな絵を描いているだろう?
その見果てぬ先にある絵、それが『日本画』なんだろうか。

この『日本』でどっぷり生きている私が描く絵は、今どうしようもなく嫌な『日本画』なはずだ。
そう!『日本画』から離れて、輝かしい『絵』を描くためにもまだまだ『日本画』と関わらなくてはいけないんだ。

記事、日々たれ流されるニュース。どれにもリアリティーを感じれない自分がいる。ただ嫌な気分が残るだけ。
楽しさも幸せも、実は身近に落ちているが、本当の不幸も社会も日本も身近に落ちていた。

もう私は皮肉としての、新しさとしての『日本画』を描くことができない。

本当に自由で、本当に不自由な自分と世界のために、
ほんものの『絵』を描こうと思う。




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